旅の者と旅先の山 土地の者と土地の山 鳥取県倉吉市 #1

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 玉川の細い水路に沿って白壁土蔵が並び、各蔵からは街路に石橋を渡している。鷺のような鳥が細長い脚をすらりと伸ばし、その石橋の上で優雅に佇んでいた。町並みを縫って朝日が差せば、赤い軽自動車の下から猫が飛び出していった。ここは鳥取県倉吉市、赤瓦・白壁土蔵群のバス停から少し街中に入ったところだ。まだ市民も観光客もあまりいない。

 白兎海岸を訪れた日は、三朝町の三朝温泉に宿泊した。その翌朝、倉吉の市街にやってきた。

 打吹山は市街の南にある。標高200メートルほどの、北から見ればベルのような形をした山だ。古くは城が置かれていた。麓は公園になっており、小動物園もある。倉吉の市民の山であり、登山道も多く伸びている。麓にいれば朝早くでも何人かの登山者を見た。私もここに登ることにしていた。

 登山道はよく整備されていて、歩きやすかった。単峰に巻きつくような道は、少々きつい坂がある程度だった。私がここに登るのは、単にこの山が倉吉のシンボルであるためだけではない。私は大山を見たかった。伯耆地方には2年前の春にも来たことがある。このときは西側を走る電車の中から大山のピラミッド型の峰を眺めた。そしてけさは、三朝温泉から倉吉に向かうバスが天神川に沿って走るとき、その山脈が明瞭に見えた。もっと近くでじっくりとこの山を見られたらよいだろう。私はこの山が好きである。中国山地は南北に厚く連なり、重畳する山々はそれ自体が無言で世界の果てしなさを語る。そこに一点の孤立峰を置いて、伯耆地方の春の空にけがれなき純白の残雪を飾っている。

 道中、打吹山の西側の斜面に出た。そこには休憩のための小屋がある。小屋の横から、谷のあいだに青白き大山の姿が浮かび上がった。茂みを抜けて山道を歩き、この霊峰に会いに来た。きりっと冷えた空に広がる大山東壁の稜線は、手前の針葉樹とともに、一枚の絵葉書のように心に焼き付いた。

 頂上に着いた。地元の登山者が軽装である一方、私は2泊3日の荷物をすべて背負っていたので少し疲れた。汗をかいてジャケットの内側が暑いほどだ。木々は茂っているが、北に展望が開けていた。日本海と、その手前に北栄町の風車群が見える。

 「ごっつい荷物背負って大変だ」
あとから登ってきた地元の人だった。70歳ほどのおじいさんで、登り慣れた雰囲気がある。倉吉の隣の松崎町から毎日のように来ているそうだ。我々はしばらく話した。偶然にも同じ時刻、私は旅先の地の未知の山に、彼は地元のいつもの山に登り互いに出会った。そして、旅の者が旅先の山を知ることの喜びと、土地の者が土地の山を慕うことの温かさを交換した。

 私は登ってくる途中で大山がきれいに見えたことを彼に伝えた。彼は、大山が見える場所がこの山にもう一箇所あることを教えてくれた。
「こっちの道(私が登ってきたのとは違う道)から下りたら相撲場があるけ、その途中に峠のロッジというのがな──」
「相撲場ですか?」
「あ、倉吉の人じゃないと知らんか。小中学生はそこで相撲を取るんだに。」

 体も十分に冷めてきて、私は彼に手を振った。そして、教えてくれたロッジの場所を目指した。ロッジは相撲場に降りるルートの途中、隣の山に分岐する道を少し進んだ場所の、ログハウス調の展望台であった。そこから眺めた大山は伸長した木々に半分隠れてこそいるが、それでも白雪の稜線が持つうるわしさを失わない。

 坂を下ってゆくと、陸上競技のトラックとともに相撲場が見えてきた。山道が終わり、アスファルトの道路に降りたとき、向こうの駐車場で誰かがこちらを見ていた。

 先ほどのおじいさんが、車に乗り込むところだった。我々はちょうど同時刻に打吹山の上で出会ったが、麓に下るのも同じ時刻だった。峠のロッジからの風景は彼がくれたものである。私から返せるものは特に何もないが、感謝を込めてまた手を振った。

 昼過ぎまで、打吹公園や白壁土蔵群、倉吉線の記念館などを観光した。小動物園にいたヤギやミニブタがまどろむほどに暖かくなった。そうすると薄雲が徐々に厚くなってきて、倉吉駅に戻るバスからはもう大山がはっきりと見えなかった。

 旅行記にしていないものも含めてこれまでの旅を振り返ったとき、印象に残る土地の人との出会いは小さな山の上や麓であることが多かったように思う。以上は、その原点ともいえる出来事だ。

(終)