北海道の西海岸には円空という江戸時代の僧が作った木像が多数残されているが、その多くは海を漂流していたところを拾われたものであるという。この僧は海難に遭った漁民の供養のために仏像を作っては流し、拾った漁民はそれを持ち帰って自らの浦に祀った。これは古代にあった水葬の慣習と、エビス神への信仰──水死者を船に引き揚げて丁寧に葬れば、豊漁をもたらすという信仰──に相似である。
五来重が書いた「日本人の死生観」(講談社学術文庫, 2021)に上のような内容の一節があり、私はこの少し奇妙な話に強く惹かれていた。同じ本には下北半島の恐山における円空の活動について書かれた文章も収録されており、その美文は私の円空への興味をさらに掻き立てた。両方の文章には共通して、円空の仏像製作の根底にある民間信仰の脈動が描かれている。昭和中期に円空像が美術的な視点から興味を集め、一大ブームを巻き起こしたと知るのは本を読んだ後のことであった。
長良川に架かる鮎之瀬橋に立てば、鵜飼の舟を留める下流の河原は海の港のように広がった。輝く川面が目を潤せば、涼し川風が肌を乾かす。上流はチャートの山塊が塞ぐ渓谷にボートが遊び、景色の趣を異にする。関駅から1時間ほど歩いてきて、ようやく長良川を目にした。この日は特に気温が上がり、ことしの遠出で初めて半袖を着た。無意識にもこの水の豊かな風景を渇望していたかのように思われた。
円空は東日本や北海道への廻国を経て無数の木像を残しているが、その生地と没地はともに美濃である。ここ関市池尻の小さな河岸段丘で、廃寺となっていた弥勒寺を再興し、晩年を過ごした。
鮎之瀬橋を渡りきったところ、川を見下ろす藤棚の陰にその入定塚がある。入定は修験道での伝統的な捨身行であり、生きたまま土中に埋まることにより行者は仏と一体となることを目指した。土中に行者を石詰めにすることで土中入定は行われる。円空が本当にこのような捨身を行ったかについて、五来は懐疑的である(五来重, 円空と木喰, 角川ソフィア文庫, 2016)。土中入定や補陀落渡海などの捨身行は、江戸時代にはすでに修験道者の葬儀の形式に変化していたという。
はじめ私は円空入定塚と書かれた碑がその本体かと思ったが、その下に積まれている石の数々が塚本体であることに後で気付いた。五来もまた、「円空と木喰」の取材のためこの場所を訪れている。篤志家が建てた大きな碑を、「中で円空が生きているとすれば、重たがっているだろう。」と批判を込めて描写した。同時に、この塚を覆う藤は、その根元から白蛇が出て長良川に届けば洪水が起きるという言い伝えを引用し、まるで民間信仰の土壌から出たような藤であると評価した。
工場の脇の道から段丘面に上がると古代弥勒寺と武儀郡衙の跡が開けた。いまは柱跡だけが残るただ広い芝生の広場である。5月の強まる日差しと木陰とがはっきりと対照していた。そこから竹林のなかに散策路が伸び、道中の小さな墓地に円空の墓碑がある。竹の葉が堆積した道は滑って歩きにくいうえに、踏むたびにザクザクと音を立てて不気味だった。その墓碑は一般人の墓と交じって墓地の最奥にある。
散策路は竹林を抜け出し、小さな谷に建つ関市円空記念館に至った。ここには市内で発見された円空仏のいくつかが展示されている。館内は撮影禁止のため、私は極めて簡素なスケッチを採った。ポリゴナルな見た目のイメージが付いていたが、絵に写そうとすると、西谷の大師像のように繊細で滑らかな質感の作品もあると気付く。しかしもとより私の関心は、審美的なことよりも円空の宗教者としての側面にある。円空は修験道の伝統を汲み、各国の霊山において修行を行った。長良川の上流にある白山への信仰も篤かったとみられる。ここには古代の水分神信仰や自然信仰に始まる白山信仰の歴史が簡潔に紹介されるとともに、白山三所権現それぞれの本地仏が展示されている。修験道の目的が超自然的な力を修行によって手に入れることであるとすれば、それを民衆に還元することは円空の祈りであった。農業神である稲荷権現の簡素な像は、飢饉のあとに豊作を願って彫られたと説明されている。
順路の最後の方に展示された聖観世音菩薩像は特殊な来歴を持つ。欅を彫り出した、光背付きの像であり、天邪鬼を踏みつけている。この仏像は明治26年(1893年)の長良川の大水害のあとに漂流していたのを拾われたという。
北海道で円空が作った仏像の多くは、円空が水難者供養のために海に流したものであると五来は推定している。それらが再び海岸に漂着し、拾われた先で御神体となったものが多くあるという。もちろん、この聖観世音菩薩像自体はその大きさからして、川に流すために製作したものではないであろう。だが、民衆救済のミッションが円空の宗教的活動を貫いているのならば、この聖観世音菩薩は明治まで円空の祈りを保存し、自らを長良川に流して誰かを救ったのかもしれない。
記念館の見学を終えて改めて鮎之瀬橋に立つと長良川の水面はますます眩しい。この流れが潤す美濃の風景を旅することは、さながら円空の信仰世界の絵解きを受けているかのように思えた。駅に帰る道の傍には農業用水がどばどばと流れ、県道沿いの田んぼでは農家が今や珍しい手植えで苗を植えていた。明日、私は白山の麓の地域まで向かうのだ。