2階に上がると格子窓から白く光が差し、柱や梁の黒さを際立たせる。壁にはめ込まれた1本の部材はよく見るとカンナで削った跡が残っている。この建物は大正期に一度火事を経験している。それ以前はこの壁よりも奥に建物が続いていて、現在より1.5倍ほど幅の広い建物だったが焼失した。この部材は火災で燃えたが、芯の部分は残り、それをカンナで削り出して残しているのだという。ガイドさんは障子を開けて、格子窓越しに街道を見せてくれた。格子窓は移り変わる御油宿の風景を写し取り続けている。
「御油宿で残ってる古い建物ももうここだけです。(鉄道の)東海道線が通ると街道の人通りもだいぶ減ったんだと思います。目の前にある道路も拡張工事で昔の街道より広くなってて、この建物も曳家をして少しだけ手前に動かしているんですよ。」
閉館時間も近づいて、そろそろおいとましようかというとき、ガイドさんが今日はどこまで行くのかと聞いてくれた。自分は東海道を通しで歩いているわけではなくて、この後は電車で豊川稲荷まで行ってそのまま豊川市内に泊まります、と言うと、豊川に泊まるのは珍しいねえということだった。他の客を案内していた別のガイドさん2人も手が空いて自然と会話に加わっていた。そこで市内のおすすめの場所を聞いてみると、
「今だったら桜ヶ丘のほうの、佐奈川の桜並木なんかきれいだよなあ」
「あとはお稲荷さんの霊狐塚なんかもいいよねえ。子供のころは遊んでてあそこに行くとさ、もう怖くってさ…… でもこの歳になるとやっぱりいいところだってわかってきたね。」
「ああ、あそこはいいところだよね。」
そう言われると俄かに霊狐塚に行ってみたくなり、私は名電赤坂駅から豊川稲荷駅に向かった。西日が当たる本宮山が、来た時よりも大きく見えた。結局この日は一日中を豊川市にいて、その風景に心を溶かした。この身ひとつで豊川の街に遊ぶことができた日だった。
豊川稲荷の本堂から右に、奥の院方面に向かうと徐々に社叢の高木が密になる。今川義元の寄進した門や巨大な大本殿が鎮座する華やかな表参道とはうってかわり、幽かにのみ光が届いて霊場の雰囲気を今にとどめる。参道の左右の千本幟は風にはためくこともできないほど多くの枚数が重なり合って並んでいる。その最奥に霊狐塚はある。
祠を中心にして四方に夥しい数の狐の石像が積み上がり、そのひとつひとつの切れ長の眼は辿り着いた者へと一斉に視線を向ける。これまで祈願が成就した参拝者がお礼として狐像を奉納してきた。まだ石材の真新しい白色を残している狐像も多い。先のガイドさんが少年時代に訪れた50年か60年前から比べると、ずいぶん数も増えたのかもしれない。今ではよく知られた場所で、豊川市の観光パンフレットも見開きで霊狐塚の写真を飾る。鳥居や祠、参道の石畳も新しく見えて、代替わりがあったであろう。しかしこのゆかしき山内最奥にあって高木に囲まれ、ひんやりと湿った空気に霊狐の視線が絡みつく感覚は、彼が初めてここに来た頃から変わっていないはずだ。
駅の裏にある三明寺とJAのグリーンセンターにも行ったあと、ひと回りして駅前の通りに戻ってきた。夕食の前にベンチに座って一息付けば、やがて日が落ちた。