三瀬谷ダムの堤体の上を渡って宮川の向かいに行った。ダム湖は明鏡止水の熟語を具象したように光り、波も立たない。翻って背後はV字の谷へと切れ落ちて、透いた水面を覗き込もうとすれば眼が眩むほどの落差だ。宮川の水質は極めて清浄である。6年前に三瀬谷に来たときは、三瀬谷ダムの名前を道の駅で見ただけだった。あの日はきっと、もっと水量が多く濁っていたことだろう。忘れものを取り戻した気がする。この僅かに下流で宮川と大内山川が合流している。大紀町との境界の橋の上からこの合流点を眺めれば、三瀬谷の風景を作る緑の深さと渓谷の険しさがここに収斂する。
道の駅の近くにあるのだが、前回は気付かなかったものがあった。大紀町船木との間にかかる舟木橋は、明治期の1905年に建設されたものであり、登録有形文化財に指定されている。国道42号線の新船木大橋が2車線の車道に歩きやすい歩道も付いているのと比べれば素朴な橋だ。近代的な橋脚のレンガ造や路面下部のトラス構造は橋の上からは見えない。しかし渓谷に峻立する2本の橋脚は、船渡しから道路交通の時代へと熊野街道が辿った変容の当事者であり証人である。いまも車は通行できるが、老朽化もあって大型車は通れない。コンクリート製の欄干は自分の腰より低くて近づくのが怖い。できるだけ真ん中を通って道の駅のほうに向かった。
道の駅で少し買い物をして駅に戻った。6年前に三瀬谷駅に戻ってきたときは、駅前のタクシー乗り場の運転手たちがあのハイカーを心配する会話をしているのが聞こえてきた。彼らも雨中に繰り出していくハイカーを見ていたのだろう。そのようなことを思い出した。6年前はここで少し不思議な爺さんにも会った。紀伊長島からパチンコをするために三瀬谷まで列車に乗ってきて、その帰りだと言っていた。列車にあまり乗ったことがなく、切符の買い方に慣れないと言っていたから、車の免許を返納した直後だったのかもしれない。私は列車待ちの時間でこの爺さんと少し仲良くなった。新宮行きの列車の車中では荷坂峠の下りから紀伊長島の海が見える場所を彼に教えてあげた。紀伊長島駅で降りた爺さんが窓越しに手を振ってくれたのがうれしかった。
あのときと逆向きの列車に乗って帰る。栃原の段丘面に広がる茶畑は西日を受けて、ただでさえ艶がかった新茶の葉一枚一枚が眩しく光っていた。ちょうど八十八夜の直後で、いままさに繁忙を極めているであろう茶農家の背中がぽつんと見えた。