みかんと風景 和歌山県有田市 #2

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 電車で紀伊宮原駅に移動した。きのうに引き続いてきょうもまた、晩秋としては暑い日だ。有田川に架かる宮原橋の遥か上方を、山地に向かって滑空するカモメの姿が涼しげに映るほどだった。

 宮原からこの橋を渡った先、有田川南岸の糸我いとが地区は有田みかん発祥の地のひとつとされている。戦国時代の天正年間、糸我の伊藤孫右衛門によって肥後八代からみかんの苗木2株がここに持ち込まれた。この苗木を祖として品種改良がなされ、江戸時代に有田一帯は一大産地としての地位を築くこととなる。ウンシュウミカンが栽培の主流となった現在では、当時の種はほぼ断絶してしまった。しかし、江戸期に築かれた技術や農業景観は、現在の有田へと連綿と続くものであろう。

 平地にも長方形の地割に従ってみかん畑が広がり、それを割る道の一路ずつには至る所に30km/h制限の標識がある。時折そのくらいの速度で農業用の軽トラが通り過ぎれば、土壌に落ちて熟れ朽ちる果実の香りが、肥料のにおいに混じって巻き上がる。その落果を狙ってか、イソヒヨドリなどの鳥類が跳ねるように木から木へと飛び回る。糸我稲荷神社の社叢の周りなどは、うるさいほどのさえずりに包まれていた。

 私はこのイソヒヨドリに柑橘好きの印象を抱く。かつて私の実家の近くに住んでいたおじさんは、よく庭の木の梢に半分に切ったみかんを刺して小鳥を呼び寄せていた。特によく来ていた鳥がイソヒヨドリであった。そのような経緯でこの艶がかった濃青の羽はとても見慣れている。実際には雑食の鳥らしいのだが、ひょっとすると農家は食害で迷惑を被っているかもしれない。

 糸我稲荷神社の隣には、熊野古道の休憩所を兼ねた資料館がある。このあと実家にも帰るため、背負う荷物が重い。脚の疲れが極まってきたためここで少し休んだ。展示によれば、この近くに伊藤孫右衛門が八代から持ち帰った苗木の子孫の木があるという。私はそこが気になり地図の場所の近くまで行ってみたが、それらしい場所の手がかりや案内版は見つからなかった。加えて、そこは私有地のみかん畑である可能性が高い。私はその代わりに、公園の敷地内にあるという伊藤孫右衛門の顕彰碑に行ってみることにした。

 雲雀山のふもとに沿って、ゆるやかな曲がり道を歩く。平地のものも山沿いの段畑のものも色を付けてよく実っていた。地区の端っこで道が袋小路になったところに、山に貼り付くような小さな児童公園がある。そのさらに奥、登山道のような階段を上り切れば、背の高く重厚な石碑が立つ。大正4年(1915年)に建てられたもので、以下の漢文と漢詩によって伊藤孫右衛門の偉業が称えられている。文は陽明学者で竈山神社(和歌山市)宮司の倉田いさおによる。明治期の国外輸出に触れていることも興味深い。

 紀伊の柑、しょうすること海内に於いて久し。其の剏始そうし、伊藤孫右衛門翁なり。 翁、有田郡糸我庄の人、かつて肥後の八代郡に於いて二株を採り、以て移植す。 故里、三百三十年を超えて今にいたる。しかして泊外に輸出し、闔郡こうぐんの利とす。 量るべからざるかな、ここに翁の壽八十六。に、天其の徳に報いて永年たらしむるに非ずや。 郡人追想し、立石を以て不朽なるを謀る。余にぞくして、之が銘となす。銘曰く、

高山嵬峩 流水汪洋 柑橘蕃殖 觀望亦良
染霜萬顯 金色玉光 満邱的楽 映堅青黄
植之之人 功名無彊

 すでにこの碑が建って100年が経過している。広葉樹の成長により視界が阻まれ、漢詩の通りの観望はここからは望めない。しかし、有田郡に広がる農業景観の明媚さは現在と大きく異ならぬものを描いているように思える。顕彰碑の足元には、隣のみかん山に続くモノレールが木漏れ日のなか佇んでいた。有田みかんの400年に及ぶ歴史を映し出す静かな風景だった。

 実家に帰る前に、有田川町のJA直売所で1袋の早生みかんを買った。10個以上が入って300円ほどのみかんが店外の特設売り場に積み上がり、各地から集まる客は丁重な選果に余念がない。私もそこに加わって、目を凝らして美味そうなみかんを見極めた。私はいつも、売り場に並んだ野菜や果物を選ぶのに時間をかけてしまう。しかしここのみかん売り場に来れば、周りもみな私と同じで、少し滑稽なほど真剣だった。早生みかんは電車でも食べて、実家の両親にも分けた。

 みかんは植わり、花咲かせ、実を結ぶ。運ばれ、売られて、食べられる。それがすべて風景になる。

(終)