永谷宗円生家から谷の斜面へと坂道が伸びて、その先が大福谷に通じている。歩き出してほどなく、農家の軽トラックが追い越していった。カーブとアップダウンの激しい道であった。道中にも、日なたになる場所を選んで茶畑がある。
桜の一本樹を目印にして道が分岐する。直進すれば伊賀越えの山道である。右に曲がると小川の谷を埋め尽くすように茶畑が広がった。聞いた話の通り防霜ファンは一本としてない。その風景はまるで昔から変わらなさそうだ。しかし、一部ではマルチを敷いて茶の幼木が育てられている。
未舗装路は大福谷の奥まで続く。そこに宇治田原製茶発祥の碑がある。永谷宗円は江戸時代の人であるが、宇治田原での茶業自体は13世紀にまで遡る。栄西が中国から茶の種を持ち帰り、それを受けた明恵が栂尾の高山寺に種を植えたことで日本に茶栽培が伝来した。その後数十年を経て、宇治田原にも明恵の弟子を経由して茶の種がもたらされたという。
しんと静まり返った大福谷の奥で足を止めれば、あたたかな春風が微かに上ってくる。谷は北面に向けて真っ直ぐ下がっていて、夜明けに冷えた空気も溜まることはなく滑り落ちてゆくだろう。そして昼になればまた谷風が上る。ここは風の絶えない谷なのだと思った。茶園はまだ黒っぽかったが、八十八夜が近づいている。
伊賀越えの道への分岐から舗装された林道に逸れて、石詰の集落に降りた。民家の軒下ではエアコンの室外機の横に茶壷が飾られていたり、丸めた寒冷紗が置かれたりしていた。湯屋谷の地名の由来となった泉の横には顔面を白く塗った化粧地蔵がある。京都府の南部ではよく見るものだが、私の知る中で一番ユニークな顔をしている。
永谷宗円生家では、維中前バス停まで戻らなくても工業団地口からバスがあると聞いていた。しかし時刻表を見ても30分は待つことになりそうだ。頼りない棕櫚の待つ分岐から湯屋谷を出て、来た道を歩いて郷之口まで戻った。郷之口に着くころには随分と雲が出てきた。花曇りの下、地域の運動会が終わったところだった。長らく生活の拠点とした京都府での最後の1年が始まっている。いつでも行ける場所が、このとき限りの場に変容しつつある。この賑やかな日は、限りを知って京都府を歩く旅の始まりになった。