白山に近づく旅 岐阜県郡上市 #4

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 白山を眺め、白山信仰の文化を知るという旅の目的は、1泊2日で可能な範囲としてはほとんど達成できた。しかしこの博物館は北濃地域の歴史民俗資料館としての機能も併せ持ち、展示資料は膨大である。特に江戸時代中期の郡上一揆における傘版連状は有名で、私にも小学校の社会科教科書で見た記憶がある。一揆の主導者がわからないように、円形に署名を行うものである。また、平地が少ない郡上では多種の生業が存在したらしく、そのぶん民俗資料の多様性も高い。防災用スキーなど、雪深い当地ならではの資料も見ることができた。

 私は長良川鉄道の車窓に佇む墓標のことを思い出していた。ここなら、それについての記述もあるかもしれない。少し探すと、郡上の墓制や葬送儀礼についての展示が見つかった。いわく、周囲一帯は火葬地帯だが、野辺送りもある。(両墓制に対しての)単墓制で、墓地は分散する。石徹白では土葬もある。おそらく白山文化博物館が開館した1997年に作られた展示であると思われ、野辺送りや石徹白の土葬が残っているかどうか私は知らない。しかし、墓地が分散するのはまさに私が見た風景そのものである。

 博物館を出て、道の駅の駐車場から長良川に降りる階段に腰掛けた。冷たそうな川面に触れたかったが、膝がまた痛み出して、丸石の河原に降りることができない。一方で、天候の悪化が予想していたよりも遅く、博物館を出てもまだ白山の稜線ははっきりしていた。身体面ではぼろぼろな旅だったが、十分に充実した気持ちがあった。

 徐々に雲が出てきたころ、白山長滝駅のホームで列車を待ちつつ、山の形を改めてノートに写した。すると誰か他の利用者が駅に近付いてくる。それは博物館にいたあの学者風の男性だった。ホームに上ってきたその人と目が合い、挨拶をした。

「こんにちは」
「こんにちは。さっき博物館に来られてましたよね。」

彼も私のことを見ていたようだ。私は昨日ニキに対してしたのと同じように、旅行中であることと目的を述べた。

「私は、そこの神社で神主をやっていましてね」
「えっ……?」

 コートの羽織り方が上品な御方と思っていたが、この方は長滝白山神社で神事に携わる方であった。後から見返すと、NHKの番組にも彼の姿は映っていた。私はいくつか博物館で学んだことを確認するような質問をした。この長滝から白山信仰が御師の活動により広がっていったことなどである。しかし私は確認以上に深い意味をもつ質問を繰り出せなかった。信仰文化に関する私の知識はひどく矮小に思われた。

 しかし、こうして白山信仰の現場に携わる方から話を聞けたこと自体が思ってもいない幸運だった。私は神主さんにお礼を言い、美濃太田行きの列車に乗り込んだ。神主さんと私は別々の場所に座った。72キロに及ぶ越美南線を引き返すのは、長良川に這わせた巻き尺を巻き戻すようなものだ。旅の終わりに向かって時間は速く流れる。美濃太田でJRに乗り継げば、今日のうちに京都の家に着いてしまう。

 だがその前に、あの一基佇む墓標の風景を、もう少し知ることができるかもしれない。いま聞かなければ、遂に知ることができないかもしれない。私は通路の反対側に座っていた神主さんに、もう一度話を聞きに行った。

「すみません……もうひとつ聞きたいことがありまして……。」

 神主さんの答えは次のようなものだった。すなわち、住居や田んぼにその家だけの墓を建てるのは、死んだ家族の霊魂が家を守るカミとなるという信仰のためであり、それを家の近くに置いておくためである。このような墓制は一般的なものだが、都市化された地域では集団墓に変わっていったという。また、近畿で集団墓が主流なのはもともとサンマイという集団の埋葬地や火葬場があったところではないか。郡上でも長滝の神社の近くには集団墓がある。単独墓があるのは浄土真宗の家が多かった地域である。

 私はそれなりに納得した。死者の荒ぶる霊魂が、葬送を経てカミとなり恩寵を与えるというのは日本では類型的な死生観である。問題はその二面性を持つ存在をどこに置いているのかということだろう。しかし、納得しきれていないところもある。浄土真宗の教えでは物理的な墓の存在が軽視されているからだ。

 雲が出て白山は見えなくなった。昨日ニキと出会った駅を通り過ぎる。偶然の糸が張りめぐらされた旅だった。疲れた私はそれを数えて眠った。

(終)