みのりのマンダラ 和歌山県有田川町 #2

かぼちゃの曲率トップ>旅行記>このページ

前のページ

 あらぎ島をはじめとして、清水・三田の地区に棚田を開いて農業の礎を築いた中心的な人物が江戸時代初期の笠松左太夫であった。街道の脇にはその顕彰碑が建つ。昭和初期に村人が建立したという碑である。左太夫が日高郡で流浪の武士の子として生まれ、徳川頼宜により山保田やまやすだ庄の大庄屋に抜擢されたこと、そのころの諸村は溝渠未成・農産未興の貧しい村落であったこと、そして自らの資産で工員を雇い灌漑・新田開発を行ったことなどが記されている。出自に関しては不明なことも多いらしく、碑の記述を素直に信じてよいかどうかわからない。

 傾斜面の上にある家で飼われる柴犬が私に気付いてしきりに吠えてくる。小春日和の平穏を乱した申し訳なさを感じながら、碑に彫られた文字を眺めていた。

 国道から見えていた西原の地区には左太夫が引いた上湯うわゆ用水が通り、西原の棚田やあらぎ島の棚田に通じている。このような比較的緩い斜面にある棚田だけではなく、有田川沿いには急斜面に作ったような棚田も多く存在する。ここに来るまでにも、バスからそのような棚田をいくつか見た。左太夫の指導に応えて田を開き、用水の工事に身を捧げた無名の人々の途方もない仕事を想った。

 街道にはモーターサイクル店や電器屋などがある。またも道を脇に逸れて、松葉観音堂に上がることができる。この堂の縁起もまた笠松左太夫にある。彼は生前、この地に堂屋敷があった跡を発見し、その再建を発願した。しかし、すでに私財を使い果たした左太夫にはもはや不可能なことであった。4代後の子孫・惣兵衛が先祖の願文に従って建てたのが松葉観音堂であるという。木製で正方形の素朴な堂に吊り下がる鰐口を鳴らしてみる。カーンという乾いた音が立つやいなや、何かが手首に触れた。鰐口にくっついていたと思われる大きな蛾が足元に落ちていた。服の袖に鱗粉が付いてしまった。

 年に一度、この観音堂で初午会式があるといい、餅投げが行われると書いてある。私の出身地の県南部でも運動会など催し物の後にはしばしば餅投げがあった。沿岸部、山間部を問わず紀州全体にこの風習が遍く浸透していることを不思議に思う。

 あらぎ島の展望所まであと少しの上り坂は曲がりくねっている。念のため付けていた熊鈴の音だけが響いて、少しだけ傾いた日の光は淡くてあたたかい。谷があり、有田川の向こうにある山々が臨める。寺原の川面からずいぶん上ってきたことがわかる。

次のページ